HDE Advent Calendar 2015

HDE Advent Calendar Day 17: 日本の冬の風物詩? 47といえば。

こんにちは。
Advent Calendar 17日目の今日は、Business Administration Division(管理部)の片岡茜子が担当させていただきます。

 

さて、突然ですが、47といえば、何を思い浮かべるでしょう?

 

1都1道2府43県で、47都道府県
化学好きなら、元素記号47番目のAg(銀)を思うかもしれないし、
数字好きなら、15番目の素数と思うかもしれません。

もしくは、かつての野球少年・少女なら、巨人軍の工藤の背番号って思ったり、
サンフランシスコには2足りず秋葉原には1足りず乃木坂には1多いから、
中途半端な数だと憤りを感じる人もいるかもしれません。

 

ですが、年末に近いこの時期、日本人に対してこの質問をすると、高確率で返ってくる答えがあります。

赤穂四十七士(あこうしじゅうしちし)、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)です。

 

忠臣蔵は「赤穂事件(あこうじけん)」という実際に起きた事件を元に作られた、赤穂浪士四十七士の討入りのストーリーの総称なのですが、その討入りをした日が旧暦12月14日(西暦だと1703年1月30日)であるため、日本では年末年始になると劇やテレビなどで頻繁に取り扱われ、また歌舞伎や文楽では「仮名手本 忠臣蔵(かなてほん ちゅうしんぐら)」といって、江戸時代から現代に至るまでとっても人気のある演目です。

 

今日は12月14日ではありませんが、

  • 私の祖母の家が赤穂浪士たちのお墓のある『泉岳寺(せんがくじ)』に近いこと、
  • 先週末、泉岳寺に行ったら「赤穂義士祭」直前だったこと、
  • 私が歌舞伎好きで、「仮名手本 忠臣蔵」も好きな演目の一つだったこと、

などの理由から、このテーマで進めてみたいと思います。

  

(1) 赤穂事件について

さて、「忠臣蔵」の元となった史実、「赤穂事件」とはどんな事件でしょう。

今から314年前、江戸時代、元禄14年3月14日(西暦だと1701年4月21日)。
江戸城松の廊下赤穂藩浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)吉良上野介(きら こうずけのすけ)を切りつける大事件がありました。

f:id:akaneco3:20151217031914j:plain(想像図@松の廊下)

 

なぜ、大事件だったのでしょうか。

 

  1. この日、当時の将軍徳川綱吉の年賀のご挨拶の返礼として天皇のお使い(勅使:ちょくし)が江戸城にお越しになる、とってもおめでたい日だったこと。だから縁起が悪いことは、NG!
  2. そもそも、江戸時代、江戸城内で抜刀はご法度!理由の如何によらず、切腹すべし、と決まっていたこと。殿中でござる!!
  3. この事件のあった松の廊下は、本丸御殿の大広間から将軍との対面所までをつなぐ大きな廊下であり、江戸城の中でもまさに将軍の目の前であったこと。将軍からしてみれば、顔をつぶされた感じ?
  4. 事件を起こした浅野内匠頭は、勅使の接待役として江戸城に参上していたこと。
  5. ちなみに、吉良上野介は、勅使の接待役がどんなものかを浅野内匠頭に教える先生であったこと。

4と5は横においておくとしても、超絶おめでたい日に、将軍の目の前で刃傷事件なんてあり得ない!

その場で取り押さえられた浅野内匠頭は、即座に切腹。そのうえで幕府は、浅野内匠頭が藩主を努める赤穂藩の領地をすべて没収、お家断絶を言い渡します。

 

一方、被害者とされた吉良上野介は、抜刀しなかったとして、一切のお咎めなし。(←ここポイント。)

 

この結果を不満に思ったのが、大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
彼は、赤穂藩の家老(かろう:家臣のうちで一番偉い人)でした。 

f:id:akaneco3:20151217032025j:plain(大石内蔵助像@泉岳寺)

 

当時は喧嘩両成敗が当たり前。なのになぜ、浅野内匠頭にだけ重い罰を与え、吉良上野介には何の罰もないのか。(幕府側は、吉良上野介浅野内匠頭に対して抜刀しなかったという証言を元に、この事件が「喧嘩」ではないと判断したそうです。)

 

大石内蔵助は同じ想いをもった赤穂藩の浪士47人を率いて元禄15年12月14日に吉良邸への討ち入り、吉良上野介を討ち果たした後、幕府に報告、幕府の命によって切腹しました。

 

(2) 忠臣蔵について

それでは史実から離れ、「忠臣蔵」のストーリーに触れていきたいと思います。

 

忠臣蔵」のストーリーの中では、史実で未明の部分「なぜ、浅野内匠頭は殿中にも関わらず、吉良上野介を切りつけたのか?」について、吉良上野介浅野内匠頭に対して執拗にいじめを続けていたところ、浅野内匠頭の怒りがとうとう頂点に達してやってしまった、なんてことになっています。

これは浅野内匠頭「この間の遺恨覚えたるか」といって吉良上野介を切りつけた、という説があるからです。

 

ここで大石内蔵助の視点に切り替えてみます。

主(あるじ)に対する吉良のいじめに憤りを感じている折に、とうとう主(あるじ)が殿中で吉良を切り付けてしまった。

しかも、本来なら喧嘩両成敗なはずなのに、吉良には何のお咎めもなく、自分たちはお家断絶。

こりゃ、ないだろう!
自分たちの命と誇りをかけて、吉良に仇討ちだー!

 と、まぁ、軽く言うと、こんな具合です。うん。


吉良の首をとって討入りを終えた大石内蔵助ほか四十七士のご一行(実は途中で一人抜けるのですが、その話はここで割愛します)は、浅野内匠頭のお墓のある泉岳寺まで行進し、そのお墓に首を供えるわけです。

主(あるじ)の無念、晴らしたぞ、と。

f:id:akaneco3:20151217032232j:plain(首洗井戸@泉岳寺吉良上野介の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う)

 

(3) 仮名手本 忠臣蔵について

さて討入り後、泉岳寺までの四十七士の行進は、当時幕府の圧政にイラついていた江戸の民衆たちの鬱憤を晴らすような出来事だったとも言われています。

内蔵助よくやった!お家(いえ)のため、主(あるじ)のために頑張った!


ここには、赤穂藩に対する江戸っ子たちの同情もあったとか。
ともあれ、大石内蔵助に喝采をおくる時点で、なんとなく「吉良=悪、浅野=善」という構図ができてしまうように思います。

こういった当時の江戸の民衆たちのこの事件に対するイメージが最もよく表れているのが歌舞伎などの「仮名手本 忠臣蔵」というネーミングです。


私がこのブログで既に何度か使ってきた「忠臣蔵」。このネーミング自体だけでも、十分にそれが表れていると思います。

忠臣」=「忠臣」+「

「忠臣」とは主(あるじ)に対して忠誠を図った臣下という意味であり、
「蔵」は四十七士をまとめた男、大石内蔵助を指す。

つまり、主に対して忠誠を誓った大石内蔵助、というわけです。いいイメージにしか思えません


そして、「仮名手本」。
これは、いろは47字赤穂浪士47士をだぶらせているのですが、そこからもう一つ読めるイメージがあります。

 

いろは歌は、通常、七五調の歌です。

色(いろ)はにほへど(と) 散(ち)りぬるを
我(わ)が世(よ)たれぞ(そ) 常(つね)ならむ
有為(うゐ)の奥山(おくやま)  今日(けふ)越(こ)えて
浅(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ(し)  酔(ゑ)ひもせず(す) 

 ですが、これを、七七調にすると、

色(いろ)はにほへど()
散(ち)りぬるを 我(わ)
世(よ)たれぞ(そ) 常(つね)
らむ有為(うゐ)の奥(お)
山(やま) 今日(けふ)越(こ)え
浅(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ()
酔(ゑ)ひもせず()

となります。

ここで、区切ったフレーズの最後の文字を縦に並べて読んでみます。

」=「咎なくて死す(罪ないのに、死んだ)」

当時の民衆たちは「仮名手本」と聞いただけで、上記が想像できたと言われています。(ほんとかな。。まぁ、真偽がどうであれ。。)この忠臣蔵のストーリーに対する作者(不明)が裏に込めた思いは、わかる気がします。

 

(4) 泉岳寺について

さて、先に浅野内匠頭のお墓が泉岳寺にあるとお話ししましたが、大石内蔵助らのお墓も、やはり東京都港区にある泉岳寺にあります。

最寄駅は、都営地下鉄三田線泉岳寺駅で、駅から徒歩5分くらいです。

駅からして赤穂浪士感満載なので、ファンにはたまらない、かもしれない。(私は「歴女」じゃないから、わからないけれど。)

f:id:akaneco3:20151217033123j:plain(赤穂浪士名簿@泉岳寺駅)

 

今年はすでにお祭りが終わってしまっていますが、毎年12月14日には開催されています。当日は境内に提灯がたくさん燈っていて、お墓にお線香をあげることができます。お線香をあげる人たちで行列ができて、全体的に雰囲気があるので、好きな方にはおススメです。 

f:id:akaneco3:20151217033532j:plain(泉岳寺)

f:id:akaneco3:20151217033730j:plain(2015年の赤穂義士祭パンフ)

f:id:akaneco3:20151217033339j:plain(大石内蔵助墓@泉岳寺)

 

f:id:akaneco3:20151217033424j:plain(みんな近くにいますの図@泉岳寺)

(5) 最後に。。。

日本人にはわりと身近な「忠臣蔵」ですが、一方で、わざわざ自分から作品に触れようとする人は少ないかもしれません。

 

正直、殿中だ、仇討ちだ、切腹だ、というのは、現代の私たちには馴染みがありません。命を粗末にしないようにと教えられる私たちに、文字通りに命をかけるということは、想像しても、やっぱり自分から遠いのことに思えてなりません。まだ、たった300年しか経ってないのにね。

 

これを機に、一度、忠臣蔵ワールドに自ら足を踏み入れていただけたら、とっても嬉しいです。

 

また、今回は赤穂浪士側に立ったブログになっていると思います。泉岳寺でお参りしてきちゃったし。ですが、実際の赤穂事件には、未だ解明されていない部分があります。実はストーリーとは異なり、吉良上野介が悪いわけではないかもしれない。そういう記述のある書物もあります。嫌な思いをした方がいらしたら、申し訳ありません。

 

そして、今回さらりとご紹介した「仮名手本 忠臣蔵」には、メインの松の廊下の事件からラストの討入りのまでの間に、大石内蔵助が四十七人を集めまわる話や、心揺らぐ士たちの話もあったりして、「これぞ、江戸の人たちが好きそうだ!」というような展開です。ストーリーとして、日本の昔からある文化の一つとして、楽しんでいただけたら、嬉しいです。

  

ということで、このへんでバトンを次の人に繋げたいと思います。

See you next year!